#27 エリースFC東京 小宮敏裕 理事長 インタビュー Vol.2
エリースフットボールクラブ東京 小宮敏裕 理事長 ロングインタビュー Vol.2
前回のロングインタビュー Vol.1 では、クラブ設立から現在に至る経緯と、クラブの理念や選手たちのプレー環境など伺った。「仕事もサッカーも100%」をモットーに、独自路線を歩むエリースFC東京の姿勢は、社会人サッカーに携わる者にとって、良い見本になるのではないだろうか。
現在、クラブの理事長を務める小宮氏のロングインタビューVol.2では、来シーズンから始まるJ3リーグや今後のJFLに対する見解、その中でエリースというクラブはどうあるべきなのかを伺っている。そして、東京都や関東のサッカーのレベルはなぜ高いのか、クラブの経営面についての詳しい話や将来の展望など、様々な話題に対して丁寧に話していただいた。(インタビュー日:2013年8月)
-小宮さんの加入当初のお話を聞かせてください。まず大卒でエリースに加入したのですか?
小宮 そうです。エリースには大学を卒業してから入りました。その後、30歳くらいになってクラブマネジメントをするようになりました。当時のリーグ戦は草サッカーチームの集まりだったので、ちょっと酷かったんですよ。ハーフタイムに煙草を吸ったり、連れて来た彼女がベンチに座っていたりね。今じゃ考えられないアットホームな状態でしたね。これじゃいけないという事で、クラブのマネジメントを引き受けました。同時に、当時の東京都社会人リーグの運営委員長も仰せつかりました。当時作成した運営要綱が、今でもまるっきりそのまま使われているんです。嬉しいやら、もう少し手直ししても良いのではないかと思いますね(笑)
-率先してマネジメントを買って出たと。そういう人がいるのは貴重だと思いますが。
小宮 結局、みんなサッカーをやりたがるんですよ。クラブチームってキャプテンがいて、一生懸命に人集めをして、グラウンドを取ったりしている。93年くらいまでの東京都リーグというのは、携帯電話もインターネットも無かった時代です。だから毎週試合で集まった時に、その翌週のグラウンドの地図と日程をコピーして配る。土曜日はほとんど練習していなくて、活動は日曜日だけだった。金曜、土曜で電話して、僕が各家庭に電話するんですけど、選手のお母さんと仲良くなっちゃうんですよ。「小宮さん、すいません、今うちの子いないんですよ」とか「絶対明日の試合は起こして行かせます」とか話して。だから連絡が大変でしたね。
-エリースが関東リーグ昇格する前に、Jリーグが開幕しましたが、何か影響を受けましたか?
小宮 東京都リーグ1部でやっていた時に、93年にJリーグが誕生して、その辺からサッカーブームが押し寄せて来ました。エリースが95年に関東に上がった時、1年間で80人くらいの新人が来たんです。高校あるいは大学を出て「Jリーグに行きたい」と。でもなかなか行けないから「関東リーグで頑張ろう」と。でも、9割くらいはレギュラーにもなれないんですよ。エリースのレギュラーになれない人間が、Jリーグに行けるわけが無いじゃないですか。夢を追うのは良いんですけど、自分の立場を分かっていない。そういう子供がとても多かった。それが3年くらい続きましたかね。それから少しずつJのブームも落ち着いて来た。
一番大きかったのは、千葉県の高校チームが全国優勝した時の得点王が、鳴り物入りでJクラブに入ったんですよ。ところが1年で解雇された。その後は転々として最後は地域リーグでプレーしていました。高校サッカー界では有名だった選手が、Jに行ったら全然レベルが違ったと。それからは親も自分の子供の試合を見て感じたんでしょうね。「あの選手がクビになったくらいだから、うちの子も危ない」と。親もバカじゃないから、そこから大学に行かせるようになりましたね。長友選手(佑都・伊インテル所属)は別格としても、だいたいの選手は大学に行かせておいて強化指定(※JFA・Jリーグ特別指定選手)としてJでやってみる。それで長友選手みたいに途中で引っ張られる選手も出てくる。大学まで行けば、履歴書に記載する文字も多くなりますから、将来再就職する時には有利だと思うんでしょう。ですから昨今の大学リーグのレベルは上がっていますよ。