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#26 エリースFC東京 小宮敏裕 理事長 インタビュー Vol.1

エリースフットボールクラブ東京 小宮敏裕 理事長 ロングインタビュー Vol.1

Jリーグ誕生から20年が経過し、アマチュアクラブが日本サッカー最高峰を目指す光景も珍しくなくなった。一方で、独自の路線を貫くクラブもある。エリースFC東京は、1970年の創立から今年で43年を迎えた。長い歴史の中で東京都、そして関東の強豪としての地位を確固たるものにしている。
「仕事もサッカーも100%」をモットーに、平日は仕事に取り組み、休日は仲間達とサッカーを真剣に楽しむ。しかし、どこにでもある草サッカーチームとは一味違う。脈々と受け継がれて来た伝統が息づくエリースとは、一体どのようなクラブなのか。今回、東京偉蹴FOOTBALLでは、クラブの理事長を務める小宮敏裕氏にお話を伺った。第1回はクラブのこれまで、選手を獲得する時に重視するポイント、Jリーグを目指すクラブもいる関東1部で戦えている理由などを語ってもらった。(インタビュー日:2013年8月)

-本日はよろしくお願いします。まず、エリースFCは、1970年に立教高校OBの方達が立ち上げたクラブなんですよね。

小宮 そうです。僕の同年代の方なんですけど、立教中学、立教高校で一緒にサッカーをやっていました。その後、立教大学に進学して僕はサッカー部に入りました。ですが体育会には入らないというメンバーが何人かいて、彼らは立教中学のコーチをやったりしていたんですよ。

その中にPTAの会長をやっていた選手の親父さんがいて、その方が「じゃあクラブチームを作ろう」と。その先生は呉正恭さんというんですけど、1970年にエリースフットボールクラブを創立しました。僕らは体育会に行ったけど、体育会に馴染めない選手達が高校卒業後にエリースに入会しましたね。

-クラブチームを作って、都リーグに参戦していくと。

小宮 東京都リーグって当時は4部までじゃなくて、A・B・Cという分け方だったんです。そこのCブロックに入ったのが始まり。僕ら立教大・体育会のメンバーは大学を出て、1975年に参加しました。1970年からクラブは今年で43年目を迎えています。

-都リーグ時代からやはり関東リーグに上がりたいと思っていたのですか?

小宮 当時の関東リーグは、それまで埼玉教員、千葉教員、東京教員とか、教員主体のリーグだったんですよ。彼らは体育の先生ですから、身体が資本で夏休みもある。昔は国体(国民体育大会)に「教員の部」というのがあって、それに出場する事が彼らのステータスでした。Jリーグが出来る前、関東リーグの上には日本リーグ(JSL)の1部と2部しかなかった。日本リーグはヤンマー、三菱重工といった企業お抱えの実業団リーグでしたね。カテゴリーとしては、レベルは低いけれど関東リーグは3部リーグでした。当時の関東リーグの試合をどこでやっていたかというと、各地の高校のグラウンドが多かった。硬い土のグラウンドですね。僕らが東京都1部だった時は、芝生のグラウンドでやる機会が結構あったんですよ。東京海上富士見台G,警視庁東大和G,三共小平G,三菱商事清瀬G,こういった会場で試合があるときは、皆が喜んで集まっていましたね。

-都リーグの方が良いグラウンドで試合をしていたのですね。

小宮 関東リーグに上がるとお金は10倍かかる。相手も教員ばかりで硬い土のグラウンドでやっていると。全然面白くないよね、という事で(関東リーグに)昇格する事にあまり強い意志がありませんでしたね。実は、体力のある教員さんにはとても叶わないので、負け惜しみが強い発言ですけどね(笑) ところが1993年にJリーグが出来た頃から、JFA(日本サッカー協会)が各地域のリーグ戦の価値を上げる為に、きっちりしたレギュレーションを持ちなさいと。関東リーグもスタンドがあって、芝生で正規のグラウンドを取りなさいと。ロッカーがあってシャワーもあって、そういう会場を取るようレギュレーションが厳しくなった。それだったら関東リーグも面白いね、となって頑張って上がろうという話になりました。93年は上がれなくて、94年に昇格を決めて、95年から関東リーグで戦うようになりました。エリース創設で25年目にしての昇格でした。

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