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#15 横河武蔵野FC 依田博樹 強化担当 インタビュー Vol.1

横河武蔵野FC特集 第2弾 依田博樹 強化担当 ロングインタビュー Vol.1


1939年に横河電機サッカー部として産声をあげた横河武蔵野FCは、JFL加盟チームの中で最も長い歴史を誇るクラブであり、“JFLの門番”としてJリーグ昇格を目指すクラブの前に立ちはだかってきた。2003年に現在の「横河武蔵野フットボールクラブ」にチーム名称を変更。企業チームからクラブチームへとクラブ運営方針を転換させ、2006年に運営法人「特定非営利活動法人武蔵野スポーツクラブ」を設立し、現在に至る。

今年から強化担当に就任した依田氏は、2007~2012年の6シーズン監督を務めており、近年のクラブ強化を語る上で欠かす事の出来ない人物だ。1998年に横河電機サッカー部に加入。現役引退後、コーチを経て2007年に監督就任。2009年はリーグ2位に導き、2012年は天皇杯ベスト16進出を果たした。
前回の吉田監督インタビューに続く横河武蔵野FC特集・第2弾は、依田強化担当のロングインタビューとなる。Vol.1では依田氏がクラブに加入したきっかけや、現役時代の回想、6年間の指導者生活、強化担当就任までの経緯などを伺っている。(インタビュー日:2013年2月)

-本日はよろしくお願い致します。まずは、依田さんの選手時代のお話を伺いたいと思います。習志野高校サッカー部では92年の高校選手権や93年のインターハイにも出場していますね。

依田 ええ、2年生の時に高校選手権、3年生の時はインターハイ出場だったと思います。

-当時の習志野高の監督は本田裕一郎先生(現・流経大柏高)でしたが、どんな指導者だったのですか?

依田 本田先生は市原緑高校で指導者としてスタートしているんですが、転任するたびに指導法を変えているんです。指導したタイミングもあったと思うのですが、市原緑の時は凄いスパルタでした。逆に習志野の時は、サッカーのスタイルも南米スタイルで、選手達の自主性を重んじました。上手くなろうとしている子達ならば、中学時代に選抜チームに入っていても、入っていなくても、練習すれば関係なく伸びていった。当時は市立船橋高校が一歩リードしていたんですが「市船に勝って、全国でも勝てるようにしよう」という想いで習志野の時は指導していましたね。

-習志野高校は本田先生が指導してから強くなった部分もありますか?

依田 それはあると思います。私の3年先輩の年代の時も全国大会に出ていますし、本田先生が習志野高校の一時代を作ったのは間違いないと思います。

-依田さんが指導者をやられてきて、本田先生の影響を受けた部分はありますか?

依田 本田先生の真似はできないですけどね(笑) 意外とユーモラスな所もあるんですよ。3学年合わせて120人くらいサッカー部員がいましたけど、誰に対してもチームの一員としてコミュニケーションを取っていました。そういうマネージメントの部分は、私の中で大切にしてきたモノの1つですね。

-本田先生は赴任先で指導法を変えていく、そういう引き出しの多さを依田さん自身どう感じていますか?

依田 時代、時代でどんなサッカーが必要とされているか、どういう事をすれば試合に勝てるかという事を考えた上での、本田先生の選択だったと思います。私はずっと同じチーム(横河)の中で「どれだけできるか?」と考えてきたわけですが。様々な監督候補者がいる中で、もちろん自分のスタイルを持って取り組める、チームに戦術を浸透させられる監督が一番理想的だと思いますが、横河自体が監督をコロコロ変えられるクラブではないですし、私自身そんな中で求められる最高の結果を出す為には、『その都度スタイルを構築しないといけないんじゃないかな』と、それを6年間ずっと考えていましたね。

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