#28 FC KOREA 李清敬 総監督 インタビュー Vol.1
-1960年代の朝鮮代表が日本に来た際に、蹴球団と交流した事はあったのでしょうか?
李 1964年の東京オリンピックの時に、“帰国前の手合わせ”という事で朝鮮大学グラウンドで試合して0-6か0-7で蹴球団が負けました。あとは1974年に平壌4.25チーム来日の時に、サッカーの指導をして頂きました。
-当時の朝鮮代表だった方が、蹴球団に関わる事はあったのですが?
李 蹴球団が朝鮮を訪問した時に、私達の特別コーチに就いてくれたりしましたね。
-そんな中、在日コリアンからもサッカーの指導者が出てくるわけですね。
李 みんな自分達で勉強して、指導者になっています。昔の蹴球団の監督であり、団長でもあったリ・チャノソという人が、加茂周さん(元・日本代表監督)の先輩でした。彼はすごく勉強家で、蹴球団を強くする上で、環境を作ったり選手の育成だったりを勉強して、非常に大きな役割をされたと思います。
-日本人と在日コリアン、強いチーム同士で切磋琢磨、お互いに高め合っていこうという時代ですね。
李 それは、昔も今も一緒ですよね。日本で生まれ育って、「頑張って日本サッカーの影響を受けながら強くなろう」という事は今も変わらないですね。あと、今は情報化社会なので世界の色々な情報が入ってきますよね。ただ、日本サッカーの影響は受けるんですけど、日本サッカーと同じ事をやったら勝てないというか、意味が無いと。もちろん基本的には似ているんですけど。プラスアルファをいかに出すか、付け加えるかというのがチーム強化にあったと思うんですよね。
-80年代後半から90年代初頭はJリーグ開幕の機運が高まっている頃でした。1990年前後に20歳くらいの在日コリアンで「これからはプロサッカー選手になろう」と思う人は、Jクラブを目指す時代に入りました。そうした影響で蹴球団の求心力が弱まっていった、そういう時代の流れが影響したのでしょうか。
李 そうですね。昔も蹴球団以外のチームでプレーしている在日コリアンもいましたけど、当時の蹴球団は強かったから目立っていたんですよ。誰でも強いチームを目指すようになるじゃないですか。蹴球団は歴史的な使命として、在日コリアンの方達に夢と希望を与える役割を果たしました。その後、1993年のJリーグの誕生と共に活躍する場が限られてきたわけですね。日本サッカーも凄く整備されてきましたしね。昔は遠征に行けば試合が出来たんですけど。
今では当たり前ですが(日本のクラブとは)日にちによって試合が出来ない事もありました。そうして蹴球団が遠征する場も限られてきたり、対戦する相手や時間も限られてきました。そういう時代の流れはありましたね。
(Vol.2に続く)
<プロフィール概略>
李清敬・・・1958年11月11日生まれ。在日コリアン2世。朝鮮大学在学中に北朝鮮代表に選出。1980年、アジアカップでも代表選手として名を連ねた。大学卒業後、在日朝鮮蹴球団で約10年プレーし、現役引退後は指導者の道へ。1994年から東京朝鮮高校の監督を4年間、1998年に蹴球団に戻り、「幻の日本一」と呼ばれたチームの監督を2年間務めた。その後、2002年のFC KOREAの創設・強化に尽力し、2012年からは総監督となりクラブの理事長も務める。2002年、在日コリアン初となるJFA公認S級コーチングラインセンス取得。