#28 FC KOREA 李清敬 総監督 インタビュー Vol.1
-そういうチームを10代の頃から見て、またお父さんを通して蹴球団の選手達と接したりして、自分がサッカー選手としてこのチームに入りたいなと思ったのはいつ頃ですか?
李 大学生の時でしたね。当時、蹴球団が年に1回、平壌に遠征に行っていたんですね。私が東京朝鮮大学の1年生から2年生になる頃に、蹴球団の試合や遠征にたまに呼ばれるようになりました。その時に一緒に連れて行ってもらったんですよ。大して上手くなかったんですけど(笑) それが最初のキッカケでした。
「サッカーを通して、在日コリアンの人達のためになる事をやろうと思った」
『4.25体育団』というサッカーチームが1974年あたりに平壌から日本に来ているんですよね。その4.25の生き残りというか、当時の若手選手がベテランになって、その選手達とボールを蹴ったんですよ。みんな本当に上手くてね、ボール回しでも全然取れなかったですね。
あとは1980年にクウェートでアジアカップがあって、そこにも連れていってもらって球拾いさせてもらったんですけど、それも一つのキッカケになりましたね。自分が何をして、在日コリアンのために役立つのかなと思った時に、「サッカーを通して、在日コリアンの人達のためになる事をやろうじゃないか」と、そう考えたのが大学2年の時ですね。そこから自分なりにレベルアップしていったかなと思います。
-子どもの頃は、そんなに長くサッカーをやるとは思っていなかったですか?
李 僕は高校を卒業したらサッカーはやらないつもりでした。でも大学2年の時に自問自答して、「これから何をしなければいけないか」と真面目に考えた時に、「サッカーを選ぼう」と。そこからレベルアップして、蹴球団に呼ばれるようになって、たまたま朝鮮代表にも一回呼ばれてという形で、それが蹴球団との付き合いというか、加入するキッカケになりました。
-蹴球団が無敵を誇っていた時代は、1970年代だったと思いますが、80年代はどんなチームですか。
李 ちょうど黄金期から若手に、新しい世代に変わっている時ですね。黄金期を支えていた人達が抜けて二世代目に移行していましたね。
-李さんが20歳頃、1980年頃から蹴球団の選手としてプレーし始めて、現役選手としていつまでプレーされたのですか?
李 30歳くらいまではプレーしていましたね。
-というと1980年代の約10年間ですね。その10年の間に、日本サッカーリーグも徐々に整備されていったと思います。対戦相手不足の問題が出てきたようですが、そういう変化を感じながらやっていたのでしょうか?
李 まだギリギリやっていた感じですよね。多い時は年間40~50試合やっていた時もあったと思うんですよ。でも、それが半分に減ってしまったりと徐々にですよね。