#28 FC KOREA 李清敬 総監督 インタビュー Vol.1
-1990年代に入り、いよいよJリーグが始まっていくわけですが。在日コリアンプレーヤでは、例えば申在範さん(現・FCガンジュ岩手の監督)がジェフユナイテッド市原とプロ契約しましたね。
李 そういう例も出てきますよね。だんだん80年代後半から変わっていきましたね。
-李さんはいつ頃から指導者を目指したのでしょう?
李 私は蹴球団では選手兼コーチだったんですが、プレーだけやっていて理論的な部分が弱かったんですね。そこで東京学芸大学の大学院に3年間行ったんです。滝井敏郎先生という、日本のサッカーを理論的に見られて、人間的にも素晴らしい方がいました。そこで勉強させてもらって、自分のスタイルというものが確立されてきたなと思います。
「日本のサッカーと競えたおかげで、在日コリアンのサッカーが高められたと思う」
-サッカーの理論を含め、日本の大学院で勉強したかったわけですね。
李 小中高大学と素晴らしい指導者と巡り合って、その影響を受けていますし、それを大学院で一つの体系化に繋げる事が出来たんじゃないかなと。今までやってきた事が理論付けられた。「あ、こういう事だったのか」と。行って良かったですね。
-その当時は大学院に行きながら、蹴球団の指導もして、という生活ですか?
李 空いている時間に大学院に行って、1993年に大学院を終えるんですけど、その頃に東京朝鮮高校の監督をやっているんですよ。コーチで1年、監督で4年。自分が指導者の端くれとしてチームを持ってやる事、学生を教える事など、良い経験をさせてもらいました。自分が監督になってからインターハイや選手権の予選にも出られるようになった。結構メディアにも出て恥ずかしかったんですけど(笑)結果が出なくてプレッシャーもありましたね。選手達も普段の練習通りやれば良いのに、みんな固くなっちゃうんですよね。「この呪縛からいつ解放されるのかな」と見ているんですけど、未だに解放されていないようですね。
-帝京高校が今より強かった時代、東京朝鮮高と帝京高の戦いはもの凄かったという記憶があります。
李 もう負けたら大変だったし(笑)向こうにしたら練習試合だったかもしれないですけど、東京朝高は公式戦に出られなかったから、練習試合も本気モードでやらせてもらいました。
-蹴球団がなかなか日本の公式戦に出られないのと同じように、高校年代もそういう事があったのですね。
李 蹴球団は読売クラブとよく練習試合やって、東京朝高は帝京とよく練習試合をやっていましたね。
-李さんが指導者として朝鮮高校にいる間に、日本サッカーの制度も寛容になっていきましたね。
李 そうですね。イギョラ杯という大会が今回で23回目なんですけど、それが在日コリアンのサッカーチームが日本の公式の場に出られるキッカケを作った大会ですね。鹿児島実業の先生だったり、当時は習志野高で今は流通経済大学付属柏にいる先生だったり、そういう人達が「朝鮮高校も良いじゃないか」と言ってくれました。国際化の時代じゃないけど、そろそろ良いんじゃないかと語りかけてくれた部分はあります。それと1994年ですかね、色々な要因はありますが、インターハイ予選に出られるようになって。“仲間として認めてくれた”という思いがあります。