#28 FC KOREA 李清敬 総監督 インタビュー Vol.1
-蹴球団に繋がる流れを押さえておきたいのですが、第二次世界大戦の前から朝鮮半島の中ではサッカーは盛んだったと聞きます。日本が植民地化した時代に、日本に連れて来られた方もいたし、自ら望んで日本に来た方もいた。そこで日本国内でもサッカーが盛んになっていったのかと思いますが。
李 サッカーに限らず、能力の高い人は日本代表に選ばれていました。ベルリンオリンピック(1936年)の男子マラソンの優勝選手はソン・ギジョンといって、朝鮮半島の選手でした。3位も朝鮮半島の選手。胸の所の日章旗を韓国の国旗にちょっと変えたという事もありました。まあ、小さな抵抗ですよね。
-100年前から歴史的な事(政治・経済・スポーツを含む)が色々とあった中で、1961年に蹴球団がスタートするという流れでしょうか。
李 まず先にお伝えしなければならない事は、私自身が蹴球団の全てを知っているわけではなく、諸先輩などから伝え聞かされたものあるので、全てが正確な情報では無いという事です。
「1959年の帰国事業から在日コリアンの東西選抜チームが誕生した」
実際には戦後から関東と関西エリアではサッカーが盛んでした。蹴球団という名前じゃないですが、地域に根ざしたチームが大阪や兵庫、関西選抜という形でありました。そういう事をやりながら東日本や西日本で活動していましたね。東西でお互いに選抜を組んで、在日コリアン同士で試合をやったり、日本各地で日本のチームと親善試合をやったり、と。
-なるほど。それが1950年代の頃ですね。
李 そして帰国事業(※1)というのが1959年に始まるんですね、新潟から船で行くやつですが。その時に記念して1960年か61年に在日コリアンの東西の選抜の人達が集まって、一つのチームを作って、日本のチームと親善マッチをしたのが、蹴球団の始まりなんです。
-最初は東西の在日コリアンのサッカー選手が集結したチームだったと。
李 その時に横浜でも試合をやっているんですけど、いまだに横浜では日朝親善サッカー大会というものが続いています。今もこの大会にはFC KOREAも出させてもらっているんですけど、蹴球団もずっと出ていたんです。帰国事業の時に「チームを作ったらどうか」となって、そういう話が凄く盛り上がって、「今までみんなバラバラでやっていたけど、集まってやろう」と。そこから東京オリンピックまでの間くらいに、そういう形を作っていったと聞かされています。
-それは東京が拠点になったのですか?
李 そうですね。1961年に総連のサッカーチームが出来て、1964年の東京オリンピックあたりまでに本来の形を作っていきましたが、その間に情勢が変化しましてね。戦後当初は北も南も無く、総連(朝鮮を支持する人達)も民団(韓国を支持する人達)も無かったんですよ。みんなサッカーが好きで、サッカーを通して日本にいる在日コリアンの人達にも試合を見てもらって、勇気を与えたり楽しんでもらうというスタンスがありました。でも、だんだん朝鮮と韓国の情勢が変わってしまい、それぞれのチームが存在するようになりました。
-1960年前後まではそういう事は無かったわけですね。
李 その頃はまだ「みんな一緒にやろう」と。(南と北で)そういう組織はありましたけど、「サッカー選手には関係ないんじゃないか」という部分がありました。戦後から約20年間は、そういう感じだったんですよ。
※1 帰国事業…在日コリアンとその家族による、日本から朝鮮への集団的な永住帰国または移住。1959年12月14日、新潟県の新潟港から出航したのが最初。1984年まで続いた。