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第17回 在日コリアン・サッカー(前編)

母の思い出

ふと思い立って、実家に電話をかけた。両親とは正月に顔を合わせたばかりだったが、母に訊きたいことがあったのだ。

母はカラオケが苦手である。唯一歌えるのが、ザ・フォーク・クルセダーズの『イムジン河』(1968年)だと話していた。しかし、私はその理由を知らない。あっそ、と聞き流していた。

なぜ『イムジン河』なのか。考えてみれば、不思議である。当時の昭和歌謡を振り返ると、いしだあゆみの『ブルー・ライト・ヨコハマ』(1968年)、南沙織の『17才』(1971年)など、ヒット曲はいくらでもある。かといって、伊東ゆかりの『小指の想い出』(1967年)や奥村チヨの『恋の奴隷』(1970年)がおハコだったりするのは、妙に生々しくて息子としては反応に困るのだけど。

さておき、『イムジン河』だ。母は宮崎県で育ち、福岡県の短大に進学している。どこで、この曲と出合ったのか。

「福岡におるとき、ラジオの深夜放送で聴いたと。文化放送やったかねえ。いや、ニッポン放送の『オールナイトニッポン』かもしれん。単純にいい歌やったけん好きになって、だんだん歌詞の意味がわかってきた。朝鮮が北と南に分かれて、たくさんの人々が離ればなれになって、かわいそうというか気の毒というか、まぁなんともいえない気持ちよね。レコードが発売中止になってからは、ラジオでも流れなくなった」

北朝鮮で生まれ、松山猛が日本語に訳した『イムジン河』が発売中止、放送自粛となった経緯について、森達也の『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)にはこう記述されている。

〈七〇年安保当時、ザ・フォーク・クルセダーズが歌ったこの曲は、歌詞に南側への偏向があるとの朝鮮総連の抗議で禁止歌になったとするのが通説だ。ところが、自国内での反政府運動を助長するとの韓国政府からのクレームだったと主張する人もいる。日本の内国調査室がレコード会社である東芝にガサ入れに入ったと記憶する人まで現れた〉

母は銀行に就職し、新入社員歓迎会の一芸披露で『イムジン河』を歌ったそうだ。その頃、カラオケは一般に普及しておらず、アカペラである。そして翌日、支店長に呼び出された。

「あなたはそういう政治活動をしよるとですか?」

いわゆる、アカ(共産主義者)だと思われたらしい。ベトナム反戦をはじめ、学生運動が活発だった時代だ。1968年、米原子力空母エンタープライズが長崎県佐世保に入港する際、友人のひとりは「3日しても戻らなかったら、死んだと思って」と言い残し、デモに参加したという(その友人はちゃんと帰ってきた)。それきり、母は人前で『イムジン河』を歌うのをやめた。

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