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第15回 ヨミウリの化石

読売クラブとの出合い

「飛田給の駅を出たとこ? そのまま真っ直ぐ進んでね、階段の上のデッキにいるよ。そう、総合受付ってのがあって。近くに全身緑の変なおじさんがいるから。うん、大丈夫。すぐわかるよ」

そう慌ただしく話し、ケータイをパタンを閉じる。当然のごとくケータイのカラーリングも緑だ。足の先から首元まで緑一色の人。白井直樹さん、56歳。私は都並敏史(東京ヴェルディ育成アドバイザー)から、「この人、ヨミウリの化石みたいな人だから」と紹介され、面識を得た。

11月4日、J2第41節、東京ヴェルディ対横浜FCの試合が始まる前、白井さんは招待券を知人友人に手渡すためにてんやわんやだった。ホーム最終節を迎えたチームを後押しするために、大動員作戦の一部を担った。読売クラブ‐東京ヴェルディのOB会組織『CLUB1969』からも依頼され、計60名分のチケットをさばくのだという。

「自分が読売クラブに在籍したのは高校1年からの2年間。それと大学生になってからの3ヵ月。選手になれなかった俺みたいな人間にとって、あそこは学校なんですよ」

と語る白井さんの歴史をひも解いてみたい。

1969年、中学1年からサッカーを始め、1970年、よみうりランドで開催された第1回少年ボールリフティング全国大会で10位に入賞。全国大会の参加者には、当時非常に高価だったアディダスの最高級スパイク『モデル2000』が贈呈された。そこで、白井さんはリフティングのボールを落とすと悪魔のように笑う人物と出会う。読売クラブ創成期のメンバーとして知られる、18歳の小見幸隆(前・柏レイソルシニアアドバイザー)だった。

白井さんが読売クラブの門を叩いたのは、リフティング大会の2年後。入学した高校にサッカー部がなかっため、読売クラブに電話をしてみた。すると「いつでも来ていいよ」という返事。セレクションはなく、来る者拒まずの体制であった。

「セレクションがないのには理由があったんです。誰にでも門戸が開かれているかわりに、読売クラブでサッカーを続けるのはどこよりも厳しい。自分が一番という選手の集まりで、新顔にはパスが回ってこない。イジメも酷かったなあ。ハンパな奴は生き残れない世界だった」

先輩選手は小見や土持功(ヴェルディSS相模原代表)といった、眼つきのきつい男たちばかり。縦、横、斜め、どこからどう見ても不良にカテゴライズされる人間である。同世代の高校生もまたトッポイ連中がそろっており、「トップは試合に勝つと3万円もらえるんだってよ。すげえよな」と話しても、「そんなもん、女を買えば一晩でなくなっちまう」と平気な顔で返された。ひとつ下の代の松木安太郎(解説者)がいて、すごい選手がいるものだと白井さんは唸った。

「クラブハウスにバス停の標識が運び込まれていたり、驚かされることばかりでね。窃盗団がサッカーをやっているのかと(笑)」

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