TOP>>コラム>>column ほっつき歩記>> 第11回 静かなる人、叫ぶ
kaieda

第11回 静かなる人、叫ぶ

ゼルビアとの遭遇

「昔、サッカーをやっていた頃からの友だちが『エフマチ(FC町田の通称)のトップがあって、Jリーグを目指してるらしいよ』って教えてくれんたんです。2005年の秋、僕は大学4年でした。近所だったし、ぶらっと試合を見に行ったのが最初です」

当時、町田は東京都リーグ1部。市北部にある小野路グラウンドで試合があるとわかった。なお、都リーグ1部は、J1から数え、J2、JFL、関東1部、関東2部の下、つまり6部リーグに相当する。

「ただの原っぱみたいなグラウンド。それでも応援している方が2、3人いて、ふだんは接することのない年上の方々が、太鼓もなく声だけで応援していました。それで試合後、声をかけられたんです。『もうすぐ関東社会人大会があるので寄せ書きをお願いします』と。ちょっと見に寄っただけで何も書くことがない、と断ったんですけど、どうしてもとお願いされたので仕方なく。なんて書いたっけな……。たぶん、がんばれ町田とか無難なことを書いたような気がします」

「次も是非来てください」とお願いされたタケルくんは、またグラウンドに出向いた。すると、今度は太鼓を持った若い男性がいた。歳を聞くと、自分の4つ上だ。歌詞カードを渡されて「一緒に歌ってください」と頼まれた。イヤですと言える雰囲気ではなく、ともに声を張り上げた。他のスタジアムでよく聞くチャントだったため、歌うのは難しくなかった。

「20代の子が来たと歓迎され、呑みに連れて行ってもらったりして、1年後には太鼓を叩いていましたね。自分がやらざるを得ない状況だったんです。2006年、関東リーグ2部に上がり、一緒に応援していた人たちが、クラブのスタッフやボランティアで忙しくなってしまったので」

その頃から少しずつ仲間が増え始めていた。しかし、応援の輪は徐々にしか広がらない。あるときは周りに向かって「一緒に応援しましょう」と呼び掛けたら、「太鼓がうるせえんだよッ」と、どやされている。自分はこんなことを言われてまで、なぜ町田を応援しているのだろうと情けなくなった。タケルくんらサポーターは組織的な活動の必要性を感じ、2006年の末に「CURVA MACHIDA」を創設した。

2007年、町田は関東リーグ1部に昇格した。リーグ戦を圧倒的強さで優勝し、すぐさまJFL参入を狙ったが、狭き門に阻まれている。全国地域サッカーリーグ決勝大会は1次ラウンドで敗退した。

「あのときのことはよく憶えています。試合後、選手、監督、コーチ、帯同していない選手やスタッフの名前まで全員をコールしたんです。負けてしまったけれど、みんなまとまって戦えた本当にいいシーズンだったので。ゴール裏に挨拶に来てくれたとき、どの顔も泣いていて、僕らもぐずぐずに泣いちゃって」

2008年、指揮官に戸塚哲也を招聘した町田は関東リーグ1部を連覇。全国地域サッカーリーグ決勝大会を勝ち抜き、見事JFL昇格を決めた。瀬戸際まで追い詰められた矢崎バレンテ戦、終了間際に山口貴之がセンタリングを上げ、蒲原達也がシュートを叩き込んだのは今も語り草だ。目撃したサポーターはいつまでもふたりの名前を胸に刻む。

◆前後のページ | 1 2 | 3