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『町田でお待ちだ!』 第3回 楠瀬直木監督代行の下で再出発するゼルビア

第3回 楠瀬直木監督代行の下で再出発するゼルビア

遅咲きの指導者

6月25日、朝9時の解任通告だった。町田の選手たちは「監督は後から来る」と告げられ、小野路グラウンドで身体を動かしていた。解任の説明、監督からの挨拶はメニューが始まって10分、15分という“練習中”のことだったという。

そんな突然の交代劇を経て、ゼルビアの指揮を引き継いだのは楠瀬直木氏。“監督代行 兼 強化育成統括本部長”という長い肩書き、重い責任を背負うことになった。49歳だから決して若手指導者ではないのだが、“クスさん”が陽の当たる場所に出てきたのは、まだ4年前のこと。今回の監督代行就任に近い経緯だった。

2009年秋から存続の危機に陥っていた東京ヴェルディが、ユース監督として何人かの候補者に断られた末に、白羽の矢を立てたのが楠瀬だった。彼は1990年代後半に、戸塚哲也らと栃木県小山市でJリーグを立ち上げる運動に参加した時期がある。夢は頓挫したが、彼は栃木に残り、ヴェルディサッカースクール小山を立ち上げた。ヴェルディ花巻、ヴェルディ相模原と同じような街クラブで、全国大会で活躍するようなエリートチームではない。しかし富田晋伍、蜂須賀孝治(ともに仙台)、小島秀仁(浦和)、高木和徹(清水ユース/U-18代表)などの人材を輩出し、人材育成では一定の成果を出した。クラブの運営が軌道に乗ると、楠瀬はS級ライセンスを取得し、次の道を目指していた。日本サッカー協会のビルで面接を受けようというその日に、ヴェルディの再生に奔走していた都並敏史からの電話を受けたのだとという。それが東京ヴェルディユース監督就任のオファーだった。

2010年の春。東京Vユースの監督が変わったことに気づき「新監督はどういう人なんだろう?」と、Googleで検索したことを思い出す。“楠瀬直木”という単語に高性能検索エンジンはほとんど反応せず、分かったのは「ヴェルディSS小山の代表」ということくらい。「こんな無名監督に任せるんだから、ヴェルディも苦しいんだな」というのが、正直な感想だった。

東京Vユースは夏のクラブユース選手権で勝ち進み、私も2度3度と取材する機会を得る。すると、彼の中に潜む強烈さが浮かび上がってきた。ウイットがあり、他の指導者と違う発想、物の例え方をする人なのだ。ヴェルディユースがいつの間に「上手くて頑張る」チームに一変していたことにも、インパクトを受けた。しかも決して抑圧された雰囲気ではなく、ドリブルや豊富な発想、感情表現の豊かさはそのままだった。

もっとも驚いたのは、同年8月末の東京都サッカートーナメント決勝と、試合後の取材だった。東京Vユースは横河武蔵野FCを破り、天皇杯出場を決める。東京Vユースは9月5日(土)に高円宮杯U-18のC大阪戦が先に決まっていて、試合会場は札幌。天皇杯1回戦の駒沢大学戦は4日夜で会場が東京! さらに2回戦に勝ち上がると、6日にFC東京戦(味スタ)というクレイジーな日程だった。私は「3連戦&札幌往復」強行日程になる可能性を楠瀬監督にぶつけた。選手の入替、コンディション調整といった部分を確認するためだ。しかし彼は愉快そうに「どちらもベストメンバーで行きます。3連戦なったら最高ですね。選手も“俺らはこんなことをやってる”という気持ちになれるでしょう」と返してきた。想定外の答えだった。

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