第18回 在日コリアン・サッカー(後編)
チャノさんにとって、在日朝鮮蹴球団(チュックダン)は憧れのチームだった。神奈川県で試合があるときは、何をおいても会場に駆けつけた。
「サッカーで日本に負けるなんてことは、あってはならないことなんです。僕らの時代、小学校のクラブ活動はサッカーだけで、しかも全員強制参加。みんなサッカーをやるしかない。その中で巧い子が中学、高校と絞り込まれ、ゆくゆくはチュックダンに入る。つまり、トップ・オブ・トップです。そりゃ、強くて当たり前ですよ。日本のチームに勝つのが、とにかくうれしくて。学生時代、日本人の友だちなんて、ひとりもできなかった。井のなかの蛙ってやつです。ずっと守られて温室育ち。差別? なにそれって」
強烈な原体験として刻まれているのは、1985年のメキシコワールドカップ予選、日本対北朝鮮だ。雨の国立競技場に2万5000人が集まり、その7割が在日コリアンだったという。
「学校のブラスバンドを総動員して、ズンチャカズンチャカ盛大に応援しました。印象に残っているのは、僕らに取り囲まれたなかでひとりだけ声を張り上げて日本を応援していた人。周りは敵だらけなのに根性入ってるなぁ、と妙に感心して見ていました。その試合、負けちゃったんですよね。原博実さんのゴールが決まって、1-0。とても悲しかったです」
2010年の南アフリカワールドカップ、在日コリアンである鄭大世(チョン・テセ)、安英学(アン・ヨンハ)が北朝鮮代表に入り、梁勇基(リャン・ヨンギ)はサポートメンバーとして帯同した。
「自分たちの仲間がワールドカップ本大会のピッチに立つなんて! 子どもたちには最高のプレゼントです。自分も頑張ればあのピッチに立てるかもしれないと夢を持つことができた」
ミサイルについて
チャノさんの職歴は多彩である。朝鮮学校の教員を2年、朝鮮通信社を4年、順天堂大学の大学院でスポーツマネジメントを学び、2002年の日韓ワールドカップの開催前後にかけて電通に2年、その後、北朝鮮関係の商社に5年いた。現在は電気機器を取り扱う仕事をしている。
「朝鮮学校に通っていたら、総連の思想に染まっていると思われがちですけど、そうでもないんですよね。20代の頃は政治の話で熱くなることはありましたよ。そういう時期は僕にも確かにあった。あの国はああした方法でしか生き残れないんだ、と。考え方が変化したのは、日本の大学院や企業にいたのが大きいと思います」
だったら、聞いてみよう。ミサイルとか飛ばしてますけど、あのときはどんな心境なんですか?
「ミサイルを飛ばしている場合かと思いますけど、自分が言うべきことではない。向こうの人に対して、言う権利がないという感じかな。僕はそこに住んでいないのだから。ただひとつ、北には深い恩義を感じているんです。昔、戦争が終わって民族の誇りを取り戻す運動が始まったとき、北は公的な支援をしてくれた。当時は社会主義が強かった時代で、ソビエトの全面バックアップを受けていましたからね。おかげで学校を建てたり、さまざまな生活の基盤を作れた。かたや南は同化していく民族だとして一切援助してこなかった。そのときの恩義を裏切ることはできない。でも、それと指導者を支持するかは別問題なんです」