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第8回 どこまでいっても男は

語り口に年輪がにじむ

松本育夫さんと何度か会い、話を聞かせてもらっている。場所は阿佐ヶ谷のルノアールである。いつもパリッとした身なりで現れ、軽妙洒脱なトークで楽しませてくれる。

1941年、栃木県宇都宮市生まれ。十代の頃から将来を期待され、早稲田大学ア式蹴球部に入ったばかりの1960年、日本代表の一員に名を連ねている。ポジションはフォワード。大学卒業後、東洋工業(現マツダ)に入り、1965年にスタートした日本サッカーリーグの4連覇に貢献した。

引退後、指導者としても実績を残した。1970年代から80年代にかけて、ユース代表監督として次世代の選手育成に携わる。現在、Jリーグの監督を見渡すと、北から石崎信弘(コンサドーレ札幌)、手倉森誠(ベガルタ仙台)、黒崎久志(アルビレックス新潟)、柱谷哲二(水戸ホーリーホック)、副島博志(ザスパ草津)、大木武(京都サンガF.C.)など、そのときの教え子が数多くいる。東京ヴェルディの川勝良一監督もそのひとりで、「代表合宿は朝から晩までみっちりトレーニング。あまりのキツさに、代表に選ばれても行きたくないとこぼしたことがあった」と苦笑しながら振り返る。

1999年、川崎フロンターレを率い、J1に昇格。2002年、長野県の地球環境高校の監督を引き受け、創部からわずか7ヵ月で高校選手権出場という前代未聞の快挙を成し遂げている。2004年、消滅の危機にあったサガン鳥栖の監督に就任。クラブを立て直すと同時に、チームを戦う集団へと変貌させた。2007年からはゼネラルマネージャーとして手腕を振るい、2011年に初のJ1昇格を達成する鳥栖の礎を築いている。大変な熱血漢と知られ、座右の銘は「全力に悔いなし」だ。

育夫さんはいつも左手に包帯を巻いている。1983年、マツダの人材開発担当として、ヤマハの「つま恋研修所」に赴いた際、ガス爆発事故に遭った。全身に大ヤケドを負い、両手足を複雑骨折。そのとき左手の指を4本失くした。以前、小見幸隆さん(柏レイソルの強化本部・統括ディレクター)と育夫さんの話題になったとき、こんな話を私は聞いている。

「育夫さんが事故に巻き込まれたとき、実は読売クラブもつま恋でキャンプを予定していたんだ。宿泊はガス爆発のあった施設。ところが、何か理由があって、寸前でキャンプが中止になってね。もしかしたら、俺やジョージ(与那城)が被害に遭っていたかもしれない。人生なんてそんなものだよ。自分ではどうにもならない、ちょっとした運に左右される」

「あとあと人生を振り返ったとき、ガス爆発に遭ったことを言い訳にしたくない。あのせいで自分の人生が台なしになったとかね。そんなのは絶対にいやだった。だから、なおさら頑張らないかん。それだけよ」と育夫さんは静かに語った。

育夫さんの語り口は、ときに広島弁のイントネーションが混じり、九州弁もちらほら出てくる。紡がれる言葉の微妙な抑揚が味わいを醸し、耳にしっとりなじむ。それが、とことんサッカーに生き、必要とされればどこでも駆けつけた人の年輪を表しているように思えた。

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