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第13回 サッカー居酒屋(後編)

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Jリーグ開幕が転機

「サッカー居酒屋いなば」のマスターこと、藤原勝男さんは岩手県花巻市の出身だ。8人兄弟の7番目として生まれた。中学からサッカーを始め、高校ではラグビーをするつもりだったが、あいにくラグビー部がなく、サッカーを続けた。

「中学の頃はね、サッカーというスポーツ自体がそれほど知られていなかった。練習で使えるボールは1個だけ。スパイクは先輩のお下がり。高くて買えなかったよ。当時、3000円くらいかな。中卒社会人の月給ぐらいだもの。本当の面白さを知ったのは、高校に入ってからだね。敵が考えていることの裏をかいて、ボールを前に運んでいく。それが面白かった」

ポジションはずっとディフェンダーだ。中学時代、部活の顧問から「サッカーは後ろが大事なんだ」と言われて以来、攻撃よりも守備の仕事を専門にやってきた。

「ワールドカップに興味を持ったのは高校の頃。でも、自分の手に届く存在ではなかった。日本が大会に出ることは到底考えられなかったし、現地観戦も現実的ではなかったね。今でこそ海外旅行は一般的だけど、あの頃は1ドル=360円の時代でしょ。それでパートタイムの日給が500円か600円程度。海外なんて夢みたいな話だよ」

高校を出た藤原さんは、実家を離れて自活する。就職先は静岡県熱海市の観光旅館だ。料理人を志した。20歳を過ぎた頃、上京。レストランや結婚式場などに勤め、料理の幅を広げた。

「初めて自分の店を持ったのは、30歳あたりだな。場所は東横線の学芸大学駅。居抜きでトンカツ屋を始めた。それを7年くらいやって、今の渋谷の店を開いたんだ。20年近くサッカーと離れていたけれど、お客さんとチームを作って、またボールを蹴り始めた」

やがて、「いなば」はサッカーファンが集まる店として知られるようになる。大きなきっかけは、1993年のJリーグ開幕だ。当時、日本サッカー協会や2002年ワールドカップ招致委員会の事務所が近くにあり、サッカー関係者も出入りするようになった。なお、「いなば」は80年代半ばから2000年頃まで牛タン専門店として営業していたが、狂牛病問題によってメニューの見直しを余儀なくされている。

マスターの歴史を聞かせてもらいながら、私はちょっと困っていた。どうも会話のキャッチボールがうまくいかない。どうやらマンツーマンのインタビューは苦手のようだった。

「それ、ほかのライターさんにも言われたことがあるよ。あなたはグループの中で楽しく話すことはできるが、ひとり演説は無理だと。だって俺は口数の少なさで知られる東北の人間だもん。本来、取っつきづらいタイプなの」

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